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自殺論

はじめに

ここでは、学生さん向けに「自殺論」(エミール・デュルケム)のレジュメを公開しています。文献は、エミール・デュルケム「自殺論」(宮島喬訳)中央公論社を使用しました。また、違う目的でいらした方は、聖書随筆というコンテンツもございます。

目次

第一編 非社会的要因

第二編 社会的原因と社会的タイプ

第三編 社会現象一般としての自殺について




序文・序論



序文

社会学者は、社会的事実にかんする形而上学的思弁に甘んじないで、はっきりとその輪郭をえがくことができ、いわば指で指し示され、その境界がどこからどこまでであるかを いうことができるような事実群を、その研究対象としなければならない。p.11

社会的事実はものと同じように、いいかえれば、個人の外部にある実在と同じように研究されなければならない。p.13

社会が存在しなければ、社会学も存立できないということ、また存在するものが個人だけならば、社会は存在しないということを人は理解しない。p.14

序論

(自殺とは)十分に客観的であって注意深い観察者ならばだれしもそれと認め、十分な特殊性をそなえているためにそれによって類別しても他種の死と混同するおそれがなく、かつ一般に自殺という名のもとに考えられている現象に十分近いのでこの言葉をひきついで使っても慣用をそこなうこともないもの。p.18

・ 積極的自殺>刃物や火器を用いる自殺
・ 消極的自殺>絶食によるもの p.19

どんな動機が行為者を動かしたのか、かれが決心したときかれは死そのものを欲していたのか、それともなにか別の目的を目指していたのか――こういうことはどうにも知るすべがない。意図というものは、あまりにも内面的なものであって、外側からはおよそのところしか知ることができない。p.20

死が、目指す目的のためには――もっぱらいまわしい条件であっても――避けがたいものとして甘受されるにせよ、また死そのものが明らかに望まれて追求されるにせよ、いずれの場合でも本人が生を放棄することに変わりはない。p.21

生きとし生ける者がもっとも貴重なかけがえのないとされる財産(生命)をこのように放棄する行為のすべてには、あきらかに共通の本質的な特徴が存在している。それにひきかえ、こうした死への決意をうながしたかもしれないさまざまな動機は、二次的な相違を生じさせるにすぎない。p.21

死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。p.22

それぞれの社会は、ある一定数の自殺をひき起こす傾向をそなえているのだ。したがって、この傾向こそが社会学に属する固有の研究対象となることができる。p.32

社会学者が研究するのは、個々ばらばらに個人の上にではなく、集団の上に影響をおよぼすことのできるような諸原因なのだ。p.33

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第一編 非社会的要因 
第一章 自殺と精神病理的状態(pp.36-71)



自殺に影響をおよぼすと思い込まれているもの

有機的心理的傾向
物理的環境の性質

精神異常

ある所与の社会にとって年間の発生率がかなり一定していて、しかも民族が異なればかなりいちじるしく変動をしめす病気

偏執狂

ただ一点を除けばまったく正常な意識を持ったもの。ときおり、不意に、飲みたいとか、盗みたいとか、罵倒したいといった不条理な欲望をいだく。しかしそれ以外の行為はすべて、それ以外の思考とともに、まったく正常。

偏執狂者には、個々の症状とは別に、その病気の基礎そのものをなす、全精神生活にかかわるある一般的な状態がつねにみとめられる。さまざまな妄想は、それの皮相的、一時的な表現にすぎない。この状態を構成しているのは、過度の興奮または過度の抑鬱、あるいは一般的な異常である。

精神病者の自殺の分類

1.偏執狂的自殺

この自殺は、ある場合には幻覚に、ある場合には妄想による。患者は、想像上の危険や恥辱をのがれるために、あるいは天から受けた神秘的な命令にしたがうために、等々の理由で自殺する。

しかし、この自殺の動機や進行のさまは、その自殺を生じさせた病、すなわち偏執の諸特徴を反映している。この疾患の特徴は、極端な動揺性にある。

2.憂鬱症的自殺

この自殺は、患者が自分と周囲の人物や事物との関係をもはや正常に評価できないほどになっている極端な沈鬱と悲哀の一般的状態にむすびついている。快楽も、かれにはなんの魅力もない。

生は倦怠と苦痛にみちているように感じられる。これらの傾向は恒常的なものであるから、自殺の観念についても同様で、それはきわめて固定的であり、自殺を生じる一般的動機もそれとわかるほどつねに同一性をたもっている。

3.強迫的自殺

この場合、自殺は現実の、あるいは想像上のいかなる動機にもよらず、ひたすら、これという理由もなく患者の精神を圧倒的に支配している死の固定観念から生じている。患者は、自殺をする正当な理由がなにもないことを完全に知っていながら、なお自殺への願望につきまとわれている。

それは、反省や推論の支配のおよばない本能的欲求であり、人が偏執狂の欲求とみなそうとした盗みや殺人や放火への欲求と類似したものである。

4.衝動的ないし自動的自殺

この自殺も現実のなかにも、患者のうちにもなんら存在理由をもっていない。それは、多少とも長期にわたって精神を悩ませ徐々に意思を支配するにいたるような固定観念の所産ではなく、突然の直接には、あらがいがたいある衝動から結果する自殺である。

この衝動は、突如すっかり発達したかたちで出現し、当の行為をひき起こすか、または少なくともその実行の開始をうながす。この自殺の傾向は、なんら知的前兆を伴うことなく、まったく自動的に突発し、その結果をもたらす。

すべての精神錯乱者の自殺は、およそ動機というものを欠いているか、あるいはまったく想像上の動機によってひき起こされているかである。ところが多くの自殺はこのいずれの部類にもはいらない。

精神病とはかかわりのない自殺がおびただしく存在する。これらの自殺は二重の標識によって認識される。すなわち、それらは熟慮されたものであること、および、その熟慮のなかにはいってくる表象はまったく幻覚的なものではないこと。

神経衰弱

厳密な意味での精神異常と知能のもうしぶんのない均衡の間にある一連の中間的形態

いかなる精神状態も、自殺とのあいだに規則的で明白な関係をもってはいない。ある社会に多くの、あるいは少ない自殺者がみられるのは、そこに神経病患者やアルコール中毒者が多かったり、あるいは少なかったりするからではないさまざまな形態の退化というものが、人を自殺させるような諸原因の作用にすぐれて適合的な心理的地盤をなすとしても、それ自体が原因のひとつをなすわけではない。

同じ状況のもとでは、退化した者のほうが健常者よりも自殺しやすいことは認めてよいが、その状態のために必然的に自殺をするというわけではない。その者のなかにやどっている潜在的な力は、それ自体探求を要する別の諸要因の作用のもとに、はじめて作動するのである。

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第二章 自殺と正常な心理状態――人種、遺伝



―人種―

人種を特徴づけるものとしては二つの属性しか残らないことになる。一つは、種々の類似をしめしている一群の諸個人ということであるが、しかしこのことは信仰や職業を同じくしている者にもいえる。だから、人種を決定的に特徴づけるのは、これらの類似が遺伝するということである。

起源にあってどう形成されるにせよ、それは現に遺伝によって伝えられることのできる一つの型である。プリシャールが次のようにのべる・・・・・・「人種という名のもとには、遺伝によって伝えられることのできる共通の属性を多少ともしめしている諸個人の集合全体が意味される。

ただし、これらの属性の起源はさしあたり問わず、留保される」。ブロカ氏は次のようにのべる・・・・・・「人類のさまざまな変種、それが人種と名づけられたわけだが、この名は、同じ変種に属する諸個人間の直接間接の血のつながりという観念を生じさせる。けれども異なった変種に属する諸個人間の血のつながりの問題については、肯定的にも否定的にも決着がつかない」。p.74

大ざっぱにみてきわめて一般的な特徴がみとめられること、その間に諸民族がふりわけられているようないくつかの主要な型が存在することを承認し、それらに人種という名をあたえるのに同意しよう。p.77

<モルセッリの四つの分類>

1.ゲルマン型(変種としてドイツ人、スカンディナヴィア人、アングロ−サクソン人、フラマン人を含む)

2. ケルト−ローマ型(ベルギー人、フランス人、イタリア人、スペイン人)

3.スラヴ型

4.ウラル−アルタイ型(ハンガリー人、フィンランド人、ロシアの若干の地方)

・・・・・・結局、すべてのゲルマン諸民族のうち、一般的に言って、自殺への強い傾きをもっているのはドイツ人だけということになる。p.78

・・・・・・自殺傾向がドイツ人の身体の遺伝的な一状態にむすびついていて、たとえ社会的環境が変わっても存続するようなこの型の永続的な特徴であることがあらかじめ証明されていなければなるまい。

こうした条件のもとではじめて、われわれはそこに人種の一所産をみとめることができよう。そこで、われわれとしては、ドイツ人が、ドイツ国外で他の諸民族の生活と結び、異なった諸文明に適応しているときにも、その悲しむべき首位の座を確保しているかどうかをしらべてみよう。p.79

(p.84参照)少なくともこれを人種の影響に帰することができるためには、この仮説が別の事実によって裏付けられ、さらには要求もされなければなるまい。ところが、全く案に相違し、仮説は以下のような事実によって反証をこうむっている。

(1)ドイツ人のそれのような、その実在性は疑いようもなく、またあれほど強い自殺への類似的傾向をそなえている集合的タイプが、社会的状況が変わるととたんにその傾向をあらわさなくなったり、ケルトや古ベルギー人のそれのようなわずかの痕跡しか残っていないなかば疑わしいタイプが、今日なおこの同じ傾向に効力ある影響をおよぼしているというのは、解せないものがあろう。過去の名残を永久に伝えていくおそろしく一般的な所属性と、このような傾向の複雑な特性のあいだには、あまりにも隔たりがありすぎる。

(2)のちにみるように、古ケルト人には自殺が多かった。それゆえ、ケルト系だと想定される住民にこんにち自殺が少ないのは、人種による生来的な特質ではなく、むしろ外的状況の変化によるものである。

―遺伝―

たとえば親子代々が肺結核にかかるという例はたしかに多い。しかし、学者たちはこれが遺伝することを認めるのになお躊躇している。・・・・・・実際、同一の家族のなかでのこの反復的な疾患、結核それ自体の遺伝によりも、病原であるバクテリアに冒されやすく、またそのばあいにバクテリアが繁殖しやすい一般的な体質の遺伝によっている可能性がある。

この場合、伝達されるのは病気そのものではなく、たんに病気の進行を容易にするような性質の地盤であろう。・・・・・・同じ留保は、われわれをいまとらえている問題についても、ぜひとも必要である。p.89

(p.90中央の資料を示して)・・・・・・右のほとんどすべての観察は、精神病医によって、それゆえ精神病者についてなされたものであった。ところで、精神異常はすべての病気のなかでおそらくもっとも遺伝しやすいものであろう。

とすれば、いったい遺伝するのは自殺傾向なのか、それともむしろ、自殺傾向が、よくあらわれる偶然的なその一徴候をなすところの精神異常ではないのか、と考えてみることができよう。・・・・・・遺伝するのは、精神疾患の一般であり、神経的欠陥であって自殺はつねにその恐るべき、しかし偶然的なひとつの帰結にほかならない。

p.93に示されている例は、自殺が遺伝的なものではなく、むしろ伝染的なものであることを示している。(p.93参照)

人々をあらかじめ自殺へと傾向づけるような遺伝にもとづく有機的・心理的決定論がもしはたらくならば、それは男女にほぼ等しく作用するはずである。なぜなら、自殺そのものはなんら性別に特定されたものではなく、生殖が女子よりも男子不利に作用するという根拠はないからである。

だが、実際は、われわれのしっているように女子の自殺は極めて少なく、男子のじさつのごく一部分を代表するにすぎない。かりに遺伝がこれに帰せられているような力をもっていたならば、このようなことにはならないだろう。p.95

・・・・・・かりに自殺の傾向が全く組織されたかたちで伝達されうるような明確な一メカニズムをなしているならば、それは幼時から作用していなければならないはずであろう。だが、実際に起こっているのはこれと反対のことである。自殺は子供には非常に少ない。p.97

・・・・・・成人のみに発現し、この時から年齢を重ねるにつれて、つねに強まっていくような傾向を、どうして遺伝のせいにすることができよう。子供のころには無であるか、非常に微弱であって、やがてしだいに強まっていき、老人にいたって初めて再強度に達するような病を、どうして先天的な病とよぶことができようか。p.99

・・・・・・自殺は人生の最後の限界になってはじめて頂点に達する。・・・・・・自殺を増減させる原因は生来の不変な一衝動にではなく、社会生活の漸進的な作用にあるのではないかということが、上記の特徴にも認められないだろうか。

人が社会に出る年齢のいかんによって自殺は早くからあらわれたり遅くあらわれたりするわけであるが、これと同様、人がより全面的に社会に参加するにつれて自殺は増加している。p.100

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第三章 自殺と宇宙的要因



個人の先有傾向はそれのみでは自殺の決定因とならないにしても、それがある種の宇宙的要因とむすびつくときには、あるいは、より大きな影響をおよぼすかもしれない。

物質的環境は、もしそれがなかったならば萌芽の状態にとどまるかもしれないような疾患をしばしば発病させるが、これと同様、物質的環境は、ある種の個人に生来的にそなわっている一般的で、まったく潜在的な自殺への傾向を行為へと移行させる力をもっているかもしれない。そうであれば、その場合、自殺率を一個の社会現象と認める理由はなくなるだろう。p.101

自殺という現象のしめす増減の少なくともある要素は、社会的原因をもちこまなくとも説明されるのではないか。p.101

季節ごとの自殺への影響

自殺が最大値に達するのは冬でも秋でもなく、いちばん自然がはなやかで、気温もほどよいあのうるわしい季節。生活がもっとも容易な時期に、人はこのんで生から決別するわけである。p.105

自然と気温の変化との関係

寒暑をとわず極端な気温は、自殺を増加させる方向に作用する。p.110

昼間の長さの変化と自殺との関係

自殺においては夜間より昼間が多産的である以上、昼間が長くなるにつれて自殺が増加する。昼間に自殺が起こりやすいのは、昼間が仕事がいちばん活発にいとなまれ、人間関係がはげしくなり、錯綜し、社会生活がもっとも激しさをしめすときだから。

日が長くなるということだけで、いわば集合生活にたいしより広大な活動舞台がひらかれているからにほかならない。休止の時間はより遅く始まって、より早く終わってしまう。集合生活の展開される範囲はよりひろがるわけである。したがって、集合生活のもたらす結果も同時に拡大されるのは必然であり、自殺もその結果のひとつであるから、増大することになる。p.121

大都市の場合

昼間の時間の長い短いは、ほとんど影響を及ぼさない。なぜならここでは、人工的照明が他所よりも暗闇の時間を少なくしているからである。自殺の月別ないし季節別の増減が集合生活の活発さの大小に規定されているとするならば、大都市の増減は国全体のそれよりもゆるやかであってしかるべきである。p.124

まとめ

宇宙的諸要因の直接の作用は、自殺の月ごと、季節ごとを証明できない。1月から7月まで自殺が増加するのは、暑熱が身体のうえに撹乱的作用をおよぼすからではなく、社会生活がより活発になるため。自殺の増減は社会的諸条件にもとづいている。

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第四章 模倣



模倣が純然たる心理的な現象であること、このことは、いかなる社会的絆によってもむすばれていない諸個人間にも生じることができるという事実から、明白に結論されてくる。

・・・・・・それゆえ、もしもそれが自殺率を規定することにあずかっていることが証明されたならば、自殺率は、全体的にせよ部分的にせよ、直接に個人的原因にもとづくということになろう。p.126

―模倣の定義―

ある行為が、それに先だって他者によってなされた同様の行為を直接の前件としていて、しかもその表彰と実行のあいだに再現された行為の内在的諸特性についてのどのような明示的、黙示的な知的操作も介在しないようなばあい、そこに模倣が生じていることになる。p.135

第一に、模倣すべきモデルがなければ、模倣もありえないだろう。つまり、伝染がそこから始まり、したがってそこで最大の強度に達しているようなひとつの中心がなければ、伝染もありえないということである。

また同じことだが、自殺傾向が社会のある部分から他の部分へと伝達されていく、と根拠をもって認めることができるためには、放射の若干の中心点の存在が観察によって明らかにされなければなるまい。p.140

・・・・・・こうしたケースは、なにもモーだけのことではない。この同じ著者は、同じ県内で、この時期にパリよりも自殺の多かった166の市町村の名をあげている。パリみずからがやしなったとみなされる二次的な中心よりもこの点で劣っているとは、なんと奇妙なことか・・・・・・。p.143

・・・・・・もし自殺が本質的に社会的環境のある種の状態にもとづいているならば、それが右(p.150参照)のようになることは容易に理解される。というのも、社会的環境は一般に相当広範な地域にわたって同じ構造をたもつからである。

とすれば、社会的環境が同じであるかぎりどこでも、たとえ伝染作用がまったくはたらかなくとも、その環境が同じ結果をもたらすのは当然である。だから、同一地域では自殺率はほぼ同じ水準に維持される、ということがよく起こるのだ。

しかし他方、自殺率を生じる原因が同一地域内にまったく均質的に分布することはまずありえないから、自殺率が往々にして、一地点から他の地点にかけて、ひとつの群から隣接群にかけて、すでにみたように多少とも大きな変動をしめすことは自然である。p.150

模倣は、衝動を爆発させる偶然的原因であるが、しかしこの衝動を創造するのは模倣ではない。だから、衝動がなければ、模倣も無害にとどまることになろう。p.154

人々は、漠然と形而上学的な考察によって基礎づけて、アフォリズムのかたちでこの命題をのべること満足してきた。しかしながら、社会学は、これを研究する者にとって、きちんとした証明の義務を右のように明らかにのがれてしまってこのように独断論を転会することがもはや許されなくなるときに、はじめて一個の科学とみなされるよう主張することができよう。p.157

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第二編 社会的原因と社会的タイプ 
第一章 社会的原因と社会的タイプを決定する方法



個人の身体的、心理的素質によっても物理的環境の性質によっても説明することのできない特有の自殺傾向が、それぞれの社会集団に存在する。p.160

自殺傾向が必然的に社会的原因に根ざすものでなければならず、それ自体がひとつの集合的現象をかたちづくるものでなければならない。集合的現象としての自殺傾向をくわしく研究しなければならない。p.160

自殺にはあまりにも多様なものがあって、いくつかの変種がふくまれていると考えざるをえない。異なった自殺タイプがみいだされれば、それと同数の自殺の潮流をみとめ、ついでそれらの原因とそれぞれの重要性を規定するようにしなければならない。p.161

しかし、正気の自殺は、形態学的な形式もしくは必要な資料がまったくないために、その特徴に照らして分類することはできない。p.161

自殺のいろいろなタイプは、実際には、それを規定している原因そのものの多様性に応じた数だけしか存在しない。各タイプが固有の性格をもつためには、それぞれもそれだけ特殊な存在条件に根ざしていなければならないということである。同一の先行与件あるいは同一種の先行与件が、あるときはある結果を生じ、他のときは別の結果を生じることはありえない。p.162
 
あらかじめ記述された自殺の特徴にしたがって直接に分類しなくとも、それらを引き起こした原因を分類することによって、自殺の社会的タイプを構成することができる。p.163

集合的現象とみなされる自殺がいろいろな合流点のどこから流れでてくるかを知ろうと思えば、まずはじめからそれを集合的な形態において、すなわち統計的データをつうじて考察していく必要がある。直接に分析の対象としなければならないのは社会率である。

しかし、社会率は、それを規定しているさまざまな原因との関連においてしか分析されえない。なぜなら、社会率を構成している単位は、それ自体では同質的なものであって、質的には区別されないからである。p.164

統計は、道徳的な決疑論の問題を解こうなどとはせずに、自殺に随伴する社会現象をもっと細心入念に記録するようにつとめなければならない。p.170

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第二章 自己本位的自殺



スイスは、この観点から検討してみると興味深い。というのは、スイスには、フランス系とドイツ系の住民がいるので、宗教がこの二つの民族におよぼす影響を別々に観察することができるからである。

ところが、その影響は、両民族にたいしてひとしくはたらいている。ドイツ系、フランス系のいかんいかかわらず、カトリックの州の自殺は、プロテスタントの州のそれの四分の一ないしは五分の一にすぎないのだ。p.174

ユダヤ教徒の自殺率がカトリック教徒のそれを大きくこえることはめったにない。なお、ユダヤ教徒が、他の宗教の信者にくらべもっぱら、都会に住み、知的職業に従事していることを忘れてはならない。この理由からするならば、かれらは、他の宗教信者よりも強い自殺傾向をもつのであるが、そのことは、かれらの信仰する宗教とは無縁の理由によるものである。

したがって、このような促進的な影響がはたらくにもかかわらずユダヤ教徒の自殺率がこうも小さい以上、他の条件がひとしければ、もっとも自殺の少ない宗教はユダヤ教だと考えることができる。p.176

(カトリック、プロテスタント)・・・・・・二つの宗教体系は、いずれも変わらずにはっきりと自殺を禁じている。両者とも、自殺をとくにきびしい道徳的な処罰の対象としているばかりではなく、ひとしく、来世では新しい生が始まり、そこでは人間は現世の悪行によって罰せられる、と説いている。そして、プロテスタンティズムも、カトリシズムとまったく同様、自殺を悪業の一つに数えているのである。p.179

カトリック及びプロテスタントの特徴>p.179参照

・・・・・・ユダヤ教徒が、大いに教養をもちながらしかもめったに自殺をしない、という生活を首尾よくやっていくことができるのは、かれらの知識欲がまったく特殊な原因から生まれているからなのだ。宗教の少数派が、かれらを対象として向けられる憎悪に抗して確信をもって生きていくために、あるいはたんに一種の対抗心から、周囲の人々より知的に秀でようとつとめるのは通例の法則である。p.193

宗教が人々を事故破壊への欲求から守ってくれるのは、宗教が一種独特の論理で人格尊重を説くからではなく、宗教がひとつの社会だからなのである。その社会を構成しているのが、すべての信者に共通の、伝統的な、またそれだけに強制的な、一定の信仰と儀礼の存在にほかならない。

そのような集合的状態が多ければ多いほど、また強ければ強いほど、宗教的共同体は緊密に統合されているわけで、それだけ自殺を抑止する力も強いことになる。・・・・・・肝心なことは、もともと教義や儀式は、自殺を抑止するにたりる強力な集合的生活をはぐくむような性質をもっているということである。そして、プロテスタントの教会が、他の教会ほど自殺の抑止作用をもたない理由は、それが他の教会ほどこの緊密性をもっていないことにもとめられる。p.196

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第三章 自己本位的自殺(つづき)    



宗教が、もっぱらそれひとつの社会であるという理由で、社会をなしている度合いに応じて、自殺を抑制するということであれば、おそらくその他のいろいろな社会も、同じ結果をもたらしているに違いない。p.198

p.204表33からみちびきだされる法則

1. 極端な早婚は、自殺に促進的な影響を与える。これは特に男子の場合にいちじるしい。p.207

2.20歳をこえると、既婚男女は、未婚者にたいして抑止率を享有するようになる。p.207

3.未婚者にたいする既婚者の抑止率には、性別の差がみられる。すなわち、既婚の状態にあるとき男女のどちらが高い抑止率を享有するかは、社会によって異なり、また男女の抑止率の差の大きさそのものも、抑止率の高い性がどちらであるかによって変わる。p.208

4.やもめ状態は、それにたいする既婚男女の抑止率を低下させるが、たいてい一までは押し下げない。p.208

既婚者のもっている自殺への免疫は、家族という環境によるものかもしれない。もしそうならば、自殺傾向を緩和し、その発現を抑えているのは家族のはたらきであろう。p.209

家族が、異なる二つの社会において、男女それぞれにちがった影響を与えるように構成されているということは、大いにありうることである。われわれの研究している現象の主要な原因は、家族集団の構造のなかにひそんでいるにちがいない。p.214

家族は、二つの異なった人間結合からなっている。すなわち、一方に夫婦集団があり、他方にいわゆる家族集団がある。これら二つの結合は、その起源も違えば性質も違い、したがってそれがおよぼす影響もまったくといってよいほどちがっている。p.214

かれらは、自殺をおもいとどまるような出来合いの気質をそなえて結婚するのではなく、夫婦の生活のなかで、そのような気質を見につけていく。ともかく、かりになにかしら生まれながらの特権があったにしても、それはひじょうに漠然とした、曖昧なものでしかない。p.225

既婚者の免疫を規定しているもっとも重要な要因は、依然として家族にあることに変わりはない。すなわち、両親と子どもたちからなる完全な集団がそれである。家族という社会が、宗教社会とまったく同じように強力な自殺の予防剤であることをいっておきたい。p.232

密度の高い家族というものは、なくてもすむ、また富んだ者だけがもつべき一種の贅沢品であるどころか、むしろ、それなしには人びとの生きていくこともかなわないような日々の糧なのである。p.237

家族の密度が自殺に影響をおよぼすのはなぜであろうか。この理由は、集団の密度が低下すると、それにともなって集団の活力もおとろえないわけにはいかないという点にもとめられる。

集合的感情が一種異常なエネルギーをもっているのは、それぞれの個人意識がそれに観応するときの力が、他のあらゆる個人意識に、それも相互的に、反作用をおよぼしているからにほかならない。p.238

ある集団の共同生活が、他の集団の共同生活よりも弱いということは、とりもなおさず、それが、他の集団ほど強く統合されていないことを意味している。一つの社会的集合体の統合の状態は、そのなかをめぐり流れている集合的生命の強度の反映にほかならないからである。p.239

家族は、自殺の強力な予防剤であるが、家族がさらに強固に構成されていればいるほど、いっそうよく自殺を抑止することができる。p.239

歴史の教えるところでは、発展と集中の途上にある若々しい社会では自殺は少ないが、他方、社会が崩壊に向かうときにはそれにつれて自殺がふえていく。p.239

国民的大戦のような社会的激動が生じると、それによって集合的感情は生気をおび、党派精神や祖国愛、あるいは政治的信念や国家的信念は鼓舞され、種々の活動は同じ一つの目標に向かって集中し、少なくとも一時的には、より強固な社会的統合を実現させる。p.246

政治的危機による自殺抑止の影響は、危機そのものからではなく、危機が原因で生じる闘争からもたらされる。闘争は、共通の危険に立ち向かうために人びとをたがいに結束させるから、個人は自分自身のことについてはあまり意を用いず、それ以上に共通の事柄に関心をいだく。p.246

筆者は、次の三つの命題を順次立証してきた。

1.自殺は、宗教社会の統合の強さに反比例して増減する。

2.自殺は、家族社会の統合の強さに反比例して増減する。

3.自殺は、政治社会の統合の強さに反比例して増減する。 p.247

種々の社会が自殺の抑制作用をもっているのは、それぞれの社会の特殊な性格によるのではなく、それらすべての社会に共通するある原因による、ということである。p.247

すなわち、自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する。p.247

個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、個人はそれに依存しなくなり、したがってますます自己自身のみに依拠し、私的関心にもとづく行為準則以外の準則を認めなくなる。

そこで、社会的自我にさからい、それを犠牲にして個人的自我が過度に主張されるような状態を、自己本位的とよんでよければ、軌道を逸した個人化から生じるこの特殊なタイプの自殺は自己本位的とよぶことができよう。p.248

どのようにして自己本位的自殺が生じるのだろうか。集合的力というものは、自殺をもっともよく抑制しうるひとつの障害であるから、集合的な力が弱まれば自殺も増大する。

社会が強く統合されているときには、社会は、個人をその懐に依存させつづけ、個人が社会の命ずるがままに行動すると考え、したがって個人が死をえらぶことによって社会にたいする義務からのがれられることを許さないのである。p.248

凝縮度の高い活気にみちた社会では、全体から個人へ、また各個人から全体へと観念や感情のたえざる交流があり、これがいわば精神的な相互のささえとなって、個人を自分ひとりの力に還元してしまわず、集合的なエネルギーに参加させ、自分一個の力がつきたときにもその集合的エネルギーのなかで活力を回復させることができる。p.249

軌道を逸した個人主義というものは、たんに自殺の原因についてその作用を促進するというだけでなく、それ自体が自殺の原因である。

この個人主義はたんに人間を自殺へ追いやる傾向を効果的に抑制している障壁をとりのぞくだけでなく、自殺への傾向をまったくあらたに創造し、この個人主義の刻印をおびた独特の自殺を生じさせる。p.249

自己本位主義は、たんなる自殺の副次的な要因ではなく、その発生原因である。このばあい、人びとを生にむすびつけていた絆が弛緩するのは、かれらを社会にむすびつけていた絆そのものが弛緩してしまったためである。p.257

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第四章 集団本位的自殺



人は社会から切り離されると時自殺をしやすくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、おなじく自殺をはかるものである。p.260

(p.262以前の内容を指して)以上のすべての場合をつうじて、自殺が行われるのは、当人がみずから自殺をする権利をもっているからではなく、それどころか、自殺をする義務が課せられているからである。p.262

・・・・・・こうした犠牲を社会が強制するのも、当然その社会の目的に照らしてのことなのである。家来が首長よりも、臣下が王よりもいきのびてはならない理由は、当の社会の構造が、・・・・・・きわめて緊密な従属関係をふくんでいて、双方を区別するという観念を排しているからにほかならない。一方の運命は、他方の運命でもなければならない。p.263

すなわち、一方は、一部分あるいは全体的に解体にひんした社会が、個人をそこから逸脱するにまかせているために起こる。他方は、社会が個人をあまりにも強くその従属下においているところから起こる。

自我がただ自分自身のみの生をいとなみ、自己以外のなにものにも従属しないでいる状態を自己本位主義と名づけたうえは、集団本位主義という言葉が、その反対の状態をあらわすのに適切であるといえよう。すなわち、自我が自由でなく、それ以外のものと合一している状態、その行為の基軸が自我の外部、すなわち所属している集団におかれているような状態がそれである。

それゆえ、この強い集団本位主義の結果生じる自殺を、集団本位的自殺とよぶことにする。しかし、そのほかに、この自殺は義務としてなされるという特徴をも示しているために、ここに採用した用語は、この特殊な性格をも表現している必要がある。そこで、このようにして構成されるタイプは、義務的集団本位的自殺と名づけることにしよう。p.265

キリスト教徒は、この世の生を、・・・・・・苦悩にみちた試練の時とみている。・・・・・・にもかかわらず、いかにキリスト教が自殺にたいして嫌悪をあらわし、嫌悪をあおりたてているかは、周知のとおりである。

それは、キリスト教社会がそれ以前の社会よりもはるかに重要な地位を個人に与えているからにほかならない。キリスト教社会は、個人にその果たすべき個人的義務を割り当て、これを怠ることを禁じている。

個人があの世で悦楽を得ることを許されるか否かは、かれがこの世で与えられる務めをどのように果たしかにかかっているが、しかもこの悦楽自体が、それにあずかることのできる行為と同じく個人的なものなのだ。このように、キリスト教精神のなかにある適度の個人主義が、その人間観および運命観にもかかわらず、人が自殺にかたむくのを引きとめている。p.271

・・・・・・相互につながりのないこれら散発的な事例をのぞくと、残るのはまとまった同質的な一群をなす自殺であり、そこには軍隊という舞台の上で集団本位的状態―軍隊精神にとって不可欠な−を原因として演じられる大部分の自殺が含まれる。

右の自殺こそ、まさに現代にもいきながらえている未開社会の自殺である。こうした潜在的傾向がはたらくので、兵士は、わずかの不満、まったく他愛もない理由、許可の拒絶・・・・・・などの理由から自殺に走ってしまう。軍隊にたびたび起こる自殺の伝染現象は、実はそうしたところから生じるのだ。p.288

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第五章 アノミー的自殺    



社会は、ただたんにさまざまの強さで個人の感情や活動をひきつけるだけのものにはとどまらない。それはまた、個人を規制する一つの力である。社会の行使するその規制作用の様式と、社会的自殺率のあいだには、ある種の関係がみとめられる。p.292

経済的危機が自殺傾向に促進的な影響をおよぼすことはよく知られている。p.292

貧困のいささかの増加もなしに、自殺の増加が起こる。したがって、一国の繁栄を急激にもたらすような歓迎すべき危機でさえ、経済的破綻とまったく変わりない影響を自殺におよぼすことになる。p.295

産業上あるいは金融上の危機から自殺を増加させるといっても、それらが、生活の窮迫をうながすためではない。なぜなら、繁栄という危機も、それと変わらない結果をもたらすからである。p.299

真の理由は、それらの危機が危機であるから、つまり集合的秩序を揺るがすものであるからなのだ。なんであれ、均衡がされると、たとえそこから大いに豊かな生活が生まれ、また一般の活動力が高められるときでも、自殺は促進される。

社会集団のなかになにか重大な再編成が生じるときには、たとえそれが突然の発展的な運動に起因するものであろうと、なにか不意の異変に起因するものであろうと、きまって人は自殺にはしりやすくなる。p.300

どんな生物も、その欲求が十分に手段と適合していないかぎり幸福ではありえないし、また生きることもできない。それに反して、もしも欲求が、手段の上で許容されるもの以上を求めたり、あるいはたんにその手段とかかわりのないものを求めたりすれば、欲求は、たえず裏切られ、苦痛なしには機能しえないであろう。p.300

人間の感性は、それを規制しているいっさいの外部的な力をとりさってしまえば、それ自体では、なにものも埋めることのできない底なしの深淵である。p.302

情念に限界を画することのできるものは個人のなかにはないから、個人の外部にあるなんらかの力が必然的にこれを限界づけなければならない。p.304

社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威であり、個人はその優越性を認めている。社会は、法律を布告し情念にこえてはならない限界を画するうえで、必要にして唯一の権威である。p.305

筆者が集合的秩序を各個人に課するためにはある権威が必要だといったのは、なにも暴力が秩序を確立するための唯一の手段だという意味ではない。その規制は、個人の情念を抑制することを目的とする以上、個人を支配する力からみちびかれるものでなければならないが、しかし、その力への服従が、恐怖からではなく尊敬の念からなされることが同じく必要だということである。p.309

人間を特徴づけているのは、かれの服している拘束が物理的なものではなく、精神的なもの、すなわち社会的なものであるということである。p.309

無規制あるいはアノミーの状態は、情念にたいしてより強い規律が必要であるにもかかわらず、それが弱まっていることによって、ますます度を強める。p.311

貧しさは、人びとに、たえずみずから規律を課するようにしいて、集合的規律を従順に受け入れる素地を用意させる。それに反して、豊かさは、個人を刺激して、背徳の因そのものとなるあの反抗心をめざめさせる危険をつねにはらんでいる。p.313

社会のその部分(商工業の世界)を支配している沸騰状態、またそこから他の部分に波及していった沸騰状態は、以下のようにして生じる。つまり、危機とアノミーの状態が、そこに不断に存在し、いわば常態になっているからである。p.315

アノミーは、現代社会における自殺の、恒常的かつ特殊的な要因の一つであり、年々の自殺率を現状のごとく維持している一つの源泉にほかならない。p.319

このような自殺は、人の活動が規制されなくなり、それによって彼らが苦悩を負わされているところから生じる。その原因にちなんで、この種の自殺をアノミー的自殺と名づけることにしよう。p.319

自己本位的自殺においては、社会の存在が欠如しているのはまさしく集合低活動においてであり、したがってその活動には対象と意味が失われている。アノミー的自殺においては、それが欠如しているのはまさしく個人の情念においてであり、したがって情念にはそれを規制してくれる歯止めが失われている。p.320

自殺と離婚の関係を規定している原因は、人びとの身体的素質にではなく、離婚というものの特有の性質にもとめなければならない。p.325

離婚者が強い自殺傾向をしめすのは、かれらがいっしょに生活をいとなんでいたときに、またその共同生活の結果として、すでに強い自殺傾向を獲得していたからなのだ。p.327

離婚がよりひんぱんに発生していればいるほど、結婚生活は女子の自殺を抑止する方向に作用する。その逆も真である。p.324

離婚の多い社会にみとめられる自殺率の上昇には、ただ夫(の自殺)のみがあずかっており、これに反して、そこでの妻の自殺は他の社会よりも少なくなっている。p.334

離婚制度そのものが、結婚生活に影響をおよぼして、自殺をひき起こすのでなければならない。p.335

離婚とは、結婚生活という規制の弛緩を意味するものである。離婚の容認されているところ、とりわけ法や慣習があまりにもこの慣行を容易にしているところでは、結婚生活そのものがすでに不安定な形態のものでしかない。それは劣った結婚生活といってもよい。とすれば、このような結婚生活は、ふつうの結婚生活と変わらぬ有益な効果をもたらすことはできまい。p.338

離婚制度の存在するもとでは、既婚男子は未婚者に似かよっているため、既婚者としての有利さをいくぶん失わざるをえないのである。その結果、自殺の総数はふえることになる。p.338

離婚と自殺の並行的な増加という事実を説明してくれるものは、離婚制度によって引き起こされる夫婦アノミーの状態にほかならない。p.340

結婚生活が真に不安定におちいるのは、離婚制度の存在している場合に限られる。p.341

未婚者の強い自殺傾向が、一部かれらの慢性的に体験している性的アノミーに原因しているならば、未婚者をおそう自殺増加がもっともいちじるしくなるのは、かれらの性的感情のもっとも高揚しているときであろう。p.341

一夫一婦制をみずからに課するようにさせた歴史的原因がなんであろうと、それによってより大きな利益を受けるのは男子のほうである。p.344

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第六章 種々の自殺タイプの個人的形態



ふつう人は、自殺者といえば、すべて生を重荷と感じている憂鬱な人間を思い浮かべる。だが、実際には、人が生を放棄するという行為は、その精神的な意味も社会的な意味もまったくちがっているさまざまな種類にふりわけられるのだ。p.347

個人が孤立するのは、個人を他者にむすびつけていた絆が弛緩したか、または断ち切られたためであり、また、個人と社会の接点において、社会が十分強固に統合されていないためである。人々の意識を切り離し、たがいによそよそしくさせているこの空隙は、まさに社会組織の弛緩のまねいた結果にほかならない。

くわえて、自己本位的自殺が、かならず知識と反省された知性のめざましい発達にともなって発生することを思い出すならば、この種の自殺の知的・思索的性格はたやすく理解される。

実際、意識が常に順次に、その活動範囲をひろげていくことを要求されているような社会では、意識は、それをこえると自壊を起こさざるをえないような正常な限界をも超える危険に、それだけ大きくさらされることは明らかである。p.352

自殺をはかる自己本位主義者の特徴は、ある時は憂鬱なもの思わしさ、またある時はエピキュリアン的な無頓着さとなってあらわれる。一般的な消沈状態にある。それにひきかえ、集団本位的自殺は、もともと強烈な感情に根ざしているために、かならずある種のエネルギーの発揚をともなう。

義務的自殺の場合には、このエネルギーは理性と意志のためについやされる。本人は、自分の意識が命じるがゆえに自殺をするのであり、いわば一つの至上命令にしたがっているのである。だから、その行為は、義務を果たしたときに感じる、あの静かな確信を基調としている。p.354

・・・・・・人を自殺へ追いやる原因と、当人にかくかくしかじかの自殺の方法をとらせる原因とは同じものではない。方法の選択をさせる動機はまったく別のものなのだ。そうした特定の死の手段の利用を可能にしてくれるものは、まずあらゆる種類の慣習や手段配置の全体である。

それを妨げる要因が介入してこないかぎり、人は、もっとも抵抗の少ない道に沿って、もっとも手近な、日常的慣行を通じて親しいものとなっている死の手段を用いるという傾向がある。p.367

しかし(自殺方法を規定している)もっとも有力な原因は、おそらく、それぞれの国民、あるいは各国民のなかにおけるそれぞれの社会集団が、どのような死に方を比較的品位のあるものとみとめているかということにあろう。p.368

p.368の第67表は、自殺の社会的タイプの原因論的分類と形態学的分類とを理解するうえで、有用である。

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第三編 社会現象一般としての自殺について
第一章 自殺の社会的要素
   



社会的自殺率の変化を規定する要因が明らかになったので、こんどは、その率の対応している実在、その率が数字の上に表現している実在の性質をはっきりさせることができる。p.372

自殺と一定の社会的環境の状態とのあいだには、直接的・恒常的関係がみとめられる。p.375

社会的自殺率は、社会学的観点からしか明らかにされえない。それぞれの時点において自殺を規定しているものは、その社会の道徳的構造である。p.375

各社会集団は、自殺にかんして実際にそれ固有の集合的傾向をもっており、個人的傾向はこの集合的傾向から派生するのであって、集合的傾向が個人的傾向から生まれてくるのではない。p.376

各民族には、固有の自殺傾向が集合的なかたちで存在していて、そこにどのくらい自殺が起こるかは、その固有の自殺傾向によって規定されている。p.383

各社会には一朝一夕には変化しえないような気質があり、集団の道徳的構造が自殺傾向の生じる基盤となっているので、自殺傾向が集団ごとに異なっていることも、各集団のなかでは自殺傾向が長期にわたってかなり一定していることも、当然である。

自殺傾向は、社会的体感(セネステジー)の本質的な一要素をなしている。体感的状態は、個人のばあいと同じく、集合体においても、このうえもなく根本的なものであるから、きわめて個性的であり、変化しにくい。p.383

国民の気質(ユムール)は、気温や気候の影響や地理的影響なで、要するに人びとの健康を規定している諸条件にくらべて、年々はるかに変化しにくい。p.384

社会を構成している個人は年々替わっていく。にもかかわらず、社会そのものが変化しないかぎり、自殺の数は変わらない。p.385

一つの社会、あるいは特定の社会の一部分において、自殺率をこのように一定にたもたせている原因は、その影響をこうむる者のだれかれにかかわりなく、等しい強度で作用しつづけるのであるから、個々人には存在しない、独立した原因でなければならない。p.386

集合的傾向は、固有の存在であり、性質こそちがえ、宇宙的な諸力と同じように現に存在する力なのだ。p.388

個人は、たがいに結合することによって、一種の新しい、それゆえ固有の思惟と感覚の様式をもった心理的存在をつくりあげる。p.390

社会が個人だけからなりたっているとするのは誤りである。社会は物的な事実をふくんでいて、しかもその物的な事実が、共同生活のなかである本質的な役割を果たしている。p.394

国民という巨大な集団を構成しているすべての個々人の意識にたいして、集合的な潮流はほとんど全的に外部的な関係に位置している。なぜなら、それぞれに個人意識は、集合的な潮流のわずか一部分をふくんでいるにすぎないからである。p.398

一つの社会の集合的タイプと、社会を構成している個人の平均タイプを混同することは根本的な誤りである。p.400

個々人が結合してつくりあげた集団は、ひとりひとりの個人とは異なった別種の実在である。p.403

集合的状態は、個人たるかぎりでの個人に影響を与えるにさきだって、また個人のなかに新たなかたちで純粋に内的な存在として形成されるのにさきだって、まずそれを生んだ集団のなかに存在している。p.404

社会によってその比重に大小の差はあっても、自己本位主義、集団本位主義、そしてある程度のアノミーとむすびついていないような道徳的理想は存在しない。p.405

自殺を左右している社会的条件が自殺数の増減を規定することのできる唯一の条件である。p.406

自殺のとくに頻発する環境がたとえ個々別々に地上全体にこまかく散在していても、それらのあいだには密接な関係がはたらいている。p.407

社会は、個人のほとんどの部分を形成するのであり、また同じく個人を思いどうりのものに仕立て上げる。p.408

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第二章 自殺と他の社会現象との関係



イングランド、チューリッヒ、プロイセン、ドイツ、オーストリア、ロシア、スペイン、いずれの国においても自殺に対する刑罰が存在している。それもかなり残虐なものばかりである。参照>p.414

アテナイやローマにおいては、自殺を容認してもらうために、評議会や元老院に申し立てをし、自殺を正当なものとしてもらう。さらにローマでの死の方法の指示は興味深い。また、自殺の伝染をくいとめるために、自殺者に対しては葬儀を行わない、死体を十字架にかけるなどの対応をした。参照>p.416-

自殺は、われわれの道徳のすべての基礎をなしている人格尊重の精神を傷つけるために非難されるというわけである。・・・・・・自殺は本質的に宗教的意味をおびた行為となった。

自殺に対して非をならしたのは宗教会議であり、それに実際に刑罰を加えた世俗権力も、教権に追従し、それにならったにすぎなかった。われわれがみずからにとって神聖でなければならないのは、ほかでもない、みずからのなかに神の一部である不滅の霊魂を宿しているからである。p.421

社会の規範とその密度が増せば増すほど、社会はいっそう複雑化し、分業がすすみ、個人間の差違もますます多様なかたちで出現するようになる。やがて、同一の人間集団においても、全成員のあいだに、全てが人間であるということ意外にもはや共通の要素がなに一つ共有されないような時期がやってくる。

このような条件のもとでは必然的に、集合的感情があらゆる力をかたむけて、のこされた唯一の対象に結びつき、そのことだけでもこの対象に比類のない価値を吹き込むのである。p.425

−自殺と殺人の反比例の問題−

・・・・・・自殺も殺人もともに暴力的な行為である。ところが、ある時には、これらの行為を生じさせる暴力は、社会的環境のなかで抵抗に出会わずに展開し、そのばあいは殺人となる。ある時には、世人の意識のおよぼす圧力のため、外部に現れるのを妨げられ、内攻し、その源となっている当人自身がその暴力の犠牲となる。p.423

−反比例の主張とその根拠−

a. 19世紀のある時においては、両者(自殺・殺人)は、ともに増加を示したが、二つの曲線を全体としてながめると、少なくともかなり長期間にわたって観察しうるところでは、きわめてあざやかな対照があらわれている。

b.  自殺と殺人がともに多発する国があっても、そこでの両者の率には常にずれがみられる。この二つの現象は、決して同一地点でともに最高の強度に達することがない。殺人の非常に多いところでは、それが自殺にたいして一種の免疫を与えている、というのが一般的な原則でさえある。

c.  戦争が自殺の増加に抑制作用をおよぼすことを、すでに明らかにしておいた。戦争は、盗み、詐欺、背任などにたいしても同じ効果をおよぼす。しかし、その例外をなす犯罪がある。それが殺人なのだ。

d.  自殺は、農村的なものであるよりも、むしろ多分に都会的なものである。殺人の場合これと反対である。

e.  カトリシズムが自殺傾向を低下させるのにたいして、プロテスタンティズムがそれを増大させることは、すでにみてきたとおりである。ところが反対に、殺人は、プロテスタントの国民よりもカトリックの国にはるかに多い。

f.  最後に、家族生活は、自殺にたいしては抑制作用をおよぼすが、故殺にたいしては、むしろそれを促進する方向に作用する。

要するに、自殺と殺人は、あるときには共存しあい、あるときには排除しあうのであり、ある場合に同じ条件からの影響を受けておなじように反応しあうかと思うと、またある場合にはそれぞれ反対の方向に反応し、しかもこの背反関係をしめす場合がもっとも多いのである。

・・・・・・自殺には異なった種類があって、そのうちのある種類は殺人と類縁関係にあるが、またある種類は殺人と相容れないものであることがみとめられる。p.449

自殺と殺人がしばしば反比例して増減するのは、両者がただ一つの同じ現象の二つの異なった側面をなしているからではない。それは、両者が、ある意味で二つの相対立する社会的潮流をかたちづくっているからにほかならない。p.454

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第三章 実践的な結論



自殺とはなにか、その種類と必要な法則はなにかが明らかになったので、次に、それにたいして今日の社会がどのような態度をとるべきかを探求しなければならない。p.459

文化の発達した諸民族における自殺の現状は、正常なものとみなされるべきであろうか、異常なものとみなされるべきであろうか。p.459

自殺が道徳意義をそこなうものである以上、それを社会病理学に属する一現象と考えないわけにはいかないであろう。p.459

あらゆる類推をはたらかせれば、自殺はけっして法や道徳と無関係の現象ではないはずだということ、すなわち、自殺が世人の意識の注視の的となるにたるほどの重大な事柄であったことはまちがいない。p.462

時代的な消長があったにしても、ヨーロッパの諸民族につねに自殺の潮流が存在していたことは動かせない事実である。その証拠には、十八世紀以降は統計によって、それ以前の時代は法律の記録によって、このことが確かめられる。

したがって、自殺は、ヨーロッパの諸民族の正常な一要素であって、おそらくはあらゆる社会の構造の一要素である。p.462

自殺の慣行と、その社会の道徳的構造とのあいだには、切っても切れない関係がある。p.463

あらゆる進歩と完全性の道徳は、ある程度のアノミーと不可分の関係にある。一定の精神的構造がそれぞれの自殺のタイプに対応していて、それと密接にむすびついている。一方は他方なしには存在することができない。

自殺は、たんにそれらの精神的構造が、ある特殊な―しかし必然的に生じる―条件のもとで必然的にしめす形態にほかならないからである。p.464

自殺の増加は、進歩というものの内的な性質にではなく、むしろ今日自殺の行われている特殊な条件に根ざしている、と考えるほうが妥当である。p.470

われわれはいま、まのあたりにしている科学、芸術、産業などの輝かしい発展にただただ眩惑されていることはゆるされない。この発展が、われわれに苦痛にみちた衝撃をおよぼす病的動揺のただなかで達成されていることは、あまりにも明白だからである。

したがって、自殺の増加が、現在は文明の歩みと並行してはいても、その必然的な条件ではないような、ある病理的状態に原因しているというこは、きわめてありうることであって、ほとんど確かなことだとおもわれる。p.470

自殺が、社会の構造のもっとも根ぶかいところにむすびついていることが、われわれにはわかっている。なぜなら、自殺は、社会の気分のありかたを表現しているのであるが、民族の気分も、個々人の気分と同じように、組織体の状態をもっとも根本的なところにおいて反映しているのだから。p.470

けっきょく自殺の増加が証明しているものは、現代の文明の発展の光輝ではなく、むしろ、長びけば危険をまねきかねないような危機と混乱の状態なのである。p.471

十九世紀をつうじて生じている自殺のはなはだしい増加は、日に日に険悪さをくわえつつある一つの病理現象である、と考えることができる。p.472

自殺にたいして少しでも厳格な刑罰を科することは不可能である。なぜならば、自殺はすでにみたように、真の美徳と近い類縁性をもつものであり、その美徳の過度におよんだものにすぎないからである。

われわれが自殺を法的に禁止することを断念したのは、われわれみずからが、自殺というものの反道徳性をほとんど感じていなかったからである。自殺は、もはや昔ほどわれわれに抵抗を感じさせないので、われわれは、それをふえるがままに放置している。

しかし、法律的条項をもうけることによっては、どのみち人びとの道徳的感受性をめざめさせることはできないだろう。ある事実が道徳的に憎むべきものとみえるか否かは、法律の有無によって決まるものではない。p.474

人びとを自殺にたいしてより厳格にさせる唯一の方法は、あの悲観的な流れに直接的にはたらきかけ、正常な河床に引きもどし、そこに押しとどめること、そして一般の人びとの意識をその影響から免れさせ、健康を回復させることをおいてほかにはない。p.474

宗教社会、家族社会、政治社会などのほかにも、これまで問題にされなかったもう一つの社会がある。それは、同種のすべての労働者、あるいは同じ職能のすべての仲間がむすびついて形成する職業集団ないしは同業組合である。p.489

この社会は、同じ労働に従事している個人によって構成され、かれらの利害は連帯し、一体化してさえいるので、社会的な観念や感情をはぐくむうえでこれほどうってつけの地盤はない。出自、教養、職業などが同一のため、職業活動は共同生活にとってこのうえなく豊富な素材をなしている。p.489

職業集団は、他のあらゆる集団にもまして次の三つの利点をそなえている。すなわち、常時存在していること、どこにでも存在していること、そしてその影響は生活の大部分の面にわたっていること、である。p.486

同業組合は、個人をとり囲み、精神的孤立状態から個人を引きだすにたるだけの十分なものをそなえている。他の集団が現在問題の多いものであるだけに、それは、この不可欠な役目を果たすことのできる唯一の集団となっている。p.486


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